2006年7月31日 (月)

成田ミステリーツアー⑦

Img_3808  成田市東峰の「東峰トンネル」。ターミナルとB滑走路を結ぶ「B連絡誘導路」の真下を一般の市道が通っている。いや、道路の上に無理に誘導路を作ったというべきか。いずれにしろ、こんな角度から飛行機を眺められる場所は世界中でも稀なのではないか。

 B滑走路(暫定平行滑走路)は、未買収地である民家や畑を避ける形で作られた。滑走路用地にはまだ人が住んでいるし、畑作業などのための出入りもある。空港側としては、その人たちのための生活道路を当然確保しなければならない。邪魔だからといって、閉じ込める訳にも行かない。反対派にも生存権がある。

 公共のためである空港建設と、個人の生活権をぎりぎりのところで折衷した結果、こういう不思議な光景が生まれた。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年6月17日 (土)

成田ミステリーツアー⑥

Dsc_0008  空港の南側の一画に、芝山町横堀地区の共同墓地がある。騒音地区に位置する横堀の住民は空港建設の過程で次々と移転し、残ったのは反対同盟熱田派の元代表、熱田一氏とその娘夫妻の二軒のみとなっていた。この「横堀墓地」も、うっそうと生い茂る木々の間に熱田家の墓と闘争の過程で自死した活動家の碑があるだけだ。

 この墓地の土地は、熱田氏の引退に伴い空港会社に売却され、埋葬者は別の墓地に改葬された。反対闘争の過程で作られたやぐらも撤去され、またひとつ成田闘争の面影が消えていった。

Dsc_0001

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2006年6月 7日 (水)

成田ミステリーツアー⑤

Dsc_0016  成田空港の南側の「第6ゲート」から北東方向、車がやっとすれ違えるほどの道を進むと、田んぼとなだらかな丘陵だけの見事な里山が広がる。民家はほとんどなく、突如反対派が掲げた看板が目に飛び込んでくる。

 芝山町菱田。B滑走路の騒音地域に指定されたこの地区は、かつて空港反対運動がもっとも激しかった地域で、反対同盟北原派、熱田派の中心メンバーもこの集落に住んでいた。支援の活動家が拠点とした団結小屋「菱田現地第一砦」は、成田新法で使用禁止命令が出された。

 Dsc_0015 B滑走路の建設が間近に控えた2000年、反対派住民らは「国が強制的な空港建設を謝罪し、反対運動に区切りがついた。平行滑走路の建設が見えてきた今が、新しい生活に向けて踏み出す時期だと考えた」として、集団移転を決めた。住民らは約1キロ東に新しい集落を作って生活している。

 住民の姿が消えた集落には、かつての反対運動をしのばせるものはほとんど何もない。ただ、錆びれた古い自動販売機が道路脇にそっとたたずんでいる。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2006年5月22日 (月)

成田ミステリーツアー④

Dsc_0023  第1ターミナルの第4サテライト、あるいは来月オープンする第5サテライトから南側を眺めると、誘導路の真ん中に一軒の家が建っているのが見える。その家の両脇数メートルを大型旅客機が悠々とタキシングしていく。何も知らない外国の乗客は空港の中に家が建っていると勘違いしてさぞびっくりしていることだろう。

 建物の正体は「木の根ペンション」。かつて空港用地の南部分には「木の根」という部落があり、開港後も空港反対派が土地を売らずに住んでいた。しかし、国・公団が強制収用を放棄し、反対同盟と公の場で話し合いを進めた90年代の「シンポ・円卓会議」を境に住民は移転し、木の根部落は消滅した。ただ、強硬派が一坪共有地として所有するこの建物だけが取り残され、現在に至っている。

 当然、空港内からこの建物には入ることは出来ない。空港外周道路に警備員が24時間監視する入り口があり、急な坂を上るとこの一軒家と「木の根プール」と呼ばれる貯水池がある。住民はおらず、反対派が外部から来た支援者の宿泊施設や研修所として使っているようだ。

 この建物は誘導路と誘導路の間の緩衝地帯に位置し、運用上の支障にはならないため、空港会社は建物の所有者に対し、積極的な働きかけをしていないようだ。今後この建物がどうなるかは分からないが、世界中どこを探しても成田以外にない「空港の中の一軒家」は、しばらくは存続しそうだ。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2006年5月 7日 (日)

成田ミステリーツアー③

Dsc_0024  空港の南側、横風滑走路建設予定地にある「横堀現地闘争本部」です。かつては反対同盟や支援活動家が拠点にした団結小屋です。現在は立ち入る者もおらず、窓ガラスは割れ、荒れ放題になっています。

 芝山町横堀地区にはかつて集落がありましたが、空港建設とともに次々と移転し現在は実質無人となっています。横堀地区には反対同盟熱田派の元代表、熱田一氏が最後まで住んでいましたが、3月に移転を決め、運動からも引退しました。

 この団結小屋の土地は「一坪共有地」として反対派20人ほどが所有権を持っています。熱田氏も所有していましたが、移転とともに手放しました。一坪共有地とは、空港用地の所有権を反対派が地主から譲り受け、所有権を細分化して買収工作を困難にする反対運動の手法。所有者200人を数える一坪共有地もあります。所有者は全国に散らばっており、中には既に死亡しているケースもあります。こういう場合、親族に所有権が引き継がれ、自分が所有者だとは気づかず「一坪共有地?何それ?」というケースも多いそうです。

 こうなってくると、一坪共有地運動の社会的意義は全くなくなり、ただの負の遺産、単なる嫌がらせ的存在です。かつて運動を主導した人たちは責任を持って適切に処置して欲しいです。自分だけ運動を退いて知らん顔は無責任です。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年3月30日 (木)

成田ミステリーツアー②

Img_3667  滑走路脇にひっそりと建つその鉄の「箱」は、有刺鉄線が幾重にも巻かれ、まるで魔物を封じ込めている呪物の様である。

 そう、まさに成田空港反対闘争という「悪夢」を封印しているのである。箱の中身は「反対同盟天神峰現地闘争本部」。かつて血気盛んな若者たちが集った木造二階建ての古い家屋がひっそりと眠っているはずである。

 1966年、三里塚に新空港を建設することが閣議決定され、直後住民らは反対同盟を結成。同盟員から持ち家を借り受け、事務局や支援の学生らの宿舎に使用した。ここを拠点に国家権力と文字通りの戦争を繰り広げられたのだ。

 1978年の管制塔占拠事件をきっかけに、国は空港に反対する過激派の破壊活動を防止する目的で「新東京国際空港の安全確保に関する緊急措置法」(成田新法)を公布、施行した。運輸(国土交通省)大臣が「暴力主義的破壊活動者」の集合の用に使用される恐れがあると認めたときは、使用禁止命令、封鎖、除去できる。現地闘争本部には1989年に使用禁止命令が出され、封印された。緊急措置法の期限は一年間なので、毎年9月になると延長される。

Img_3663

 この建物があるために、B滑走路の誘導路は「への字」に湾曲している。NAAは既に元の地主から土地を取得したが、建物の所有権は反対同盟にあるため、土地の明け渡しを求め提訴、千葉地裁で係争中である。

 あたりは白いフェンスで囲まれ、すぐ横をジェット機が轟音をたて悠々と滑走路に向かってゆく。有刺鉄線に引っかかった黒いビニールが風に煽られカサカサと音をたてている物悲しい状景が、反対運動の斜陽と見事に重なって見える。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年3月14日 (火)

成田ミステリーツアー①

Img_3648  小さな社と真新しい石造りの鳥居。周りは雑草が刈り込まれ、住民によってよく手入れされていることがわかる。田舎にはどこにでもある、集落の小さな鎮守の神社だ。有刺鉄線付きのフェンスに囲まれ、カメラと警備員に24時間監視され、真上をジェット機が轟音をたててかすめていくことを除けば。

 B滑走路予定地のほぼ真ん中に位置する東峰地区の「東峰神社」。写真の右側数10㍍の位置に滑走路があり、北風運用(34R)の際には写真のように着陸機がすぐ真上を通っていく。元々は神社の周りに立ち木が茂っていたが、航空機の進入に支障が出るということで、02年の供用開始前に空港公団が住民に無断で伐採。激怒した住民らと公団職員を守る機動隊がにらみ合う一触即発の事態になった。訴訟の末、公団がすでに取得していた神社の土地を住民に譲る形で和解した。

 東峰地区の住民は未だ空港反対の姿勢を崩しておらず、この土地に滑走路が出来るのはまだまだ先のようだ。あるいは永遠に出来ないのかもしれない。空港の中に盲腸のように残された神社は、静かにその存在感を示し続けている。

 激しい空港反対運動の傷跡は、いまだ空港のあちこちに点在している。一日8万5千人の旅行客が利用するターミナルの開放的な雰囲気からはおおよそ想像できないものばかりだ。「成田のもうひとつの顔」を追々紹介していきたいと思います。

| | コメント (29) | トラックバック (0)