2006年11月11日 (土)

異形の滑走路⑤

 シンポジウムでは、ひとつの問題に議論が集中した。「土地収用法の事業認定が20年が経過した現在も有効かどうか」―。

 土地収用法とは、公共事業用地を取得する際に強制的に取り上げる力を事業者に与える法律。事業認定とは、収用法の効力が及ぶ範囲を定めたもの。すなわち、事業認定で空港用地とされた民家や土地はは、いつでも国家に力で取り上げられる恐怖にさらされる。空港用地内の反対派農家は事業認定から20年間、強制収用の恐怖に耐えてきた。

 反対同盟は、シンポで「事業認定失効論」を主張した。国から強制力を取り上げ、対等の立場で話し合うためだ。一方の運輸省は法律論や一般論をたてに譲らない。堂々巡りの議論の中で、シンポを仲介する隅谷調査団が所見を発表する。

 「空港公団が事業認定から20年以上経過してなお用地を取得出来ていない事態は極めて異常であり、運輸省が土地収用法は形式的にはなお適用可能であるとすることは、社会的正義の視点からみても問題があると言わざるを得ない」。国の姿勢を批判し、反対同盟に軍配を上げた。

 93年5月。最終回の第15回のシンポで、国側は所見を発表する。①収用裁決申請を取り下げる②反対闘争を招いた過去の行為を反省し、B、C滑走路計画を白紙に戻す③今後の成田問題解決にあたって新しい協議の場を設ける―。

 国は収用裁決を取り下げることで、法的にも強制収用が出来なくなり、空港建設のために残された手段は話し合いしかなくなった。この譲歩により、20年以上に及ぶ成田空港問題が解決に向かう機運が出来た。メディアもシンポの成果を一面トップで報じた。

 しかし、「異形の滑走路」への歩みは決して止まったわけではなかった。

 

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2006年8月17日 (木)

異形の滑走路④

 1990年1月30日、当時の江藤隆美運輸大臣が木造平屋の粗末な横堀公民館を訪れ、反対同盟員を前に「強制収用は念頭におかず、誠心誠意進めていく」と発言した。身動きが取れずにもがいていた国が、農民側に歩み寄った瞬間だった。

 一方、反対同盟は83年に闘争路線をめぐり分裂。国との話し合いを一切拒否する強硬派の北原派と、地域における空港の存在を認めながら現実的な反対運動を進める熱田派に分かれた。熱田派の元青年行動隊ら若い世代が中心となり、90年代に空港問題は大きく動き出す。

 91年11月、成田市国際文化会館で第1回成田空港問題シンポジウムが開催された。集まったのは運輸大臣をはじめとする運輸省幹部、空港公団総裁、熱田派幹部、そして仲介役の学識経験者。公開の場で国と反対派がお互いの主張をぶつけ合う初めての場だった。力と力がぶつかり合った成田闘争がひとつの局面を迎えた。

 ただ、国側の目的は話し合いによる空港建設の推進。反対同盟側は平行滑走路を含む二期工事の阻止が狙い。シンポが始まった段階では、お互いの立場は到底歩み寄れないほどの隔たりがあった。しかし、議論を進めていくにつれ、国側は反対同盟も予想しなかったほどの譲歩をすることになる。

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2006年7月18日 (火)

異形の滑走路③

 開港と前後して、1978年5月に「新東京国際空港の安全確保に関する緊急措置法」(成田新法)が公布、施行された。運輸大臣が多数の「暴力主義的破壊活動者」の集合の用などに使用される恐れがあると認める時は、規制区域内にある団結小屋などに対し、使用禁止、封鎖、除去の三つの処分を命ずることができるとしている。同年3月の過激派による管制塔占拠事件を機に、議員立法で作られた。

 つまり、開港しても反対派のとの戦いは続いていたのである。国はこの法律により、反対派を支援するために全国から集まった活動家が拠点とする団結小屋を封じ込める手段を手に入れた。

 開港から8年が経った86年。国は強制収用と成田新法という切り札を懐に入れ、二期工事に着手する。空港東側に第二ターミナル、そして平行滑走路を作る計画だ。依然反対闘争は続いているが、開港前のようなパワーはさすがに見られなくなっていた。国は成田新法で過激派を押さえつけ、用地買収が困難な場合は3回目の強制収用を視野に入れていた。

 そんな折、国にとっては悪夢のような事件が起きる。88年9月21日、千葉県収用委員会委員長の小川彰弁護士が自宅近くの路上でヘルメット姿の男三人に鉄パイプでめった打ちされ、重傷を負った。後に中核派が犯行声明を出した。その後、日常的に過激派の嫌がらせを受けていたほかの委員も辞任し、収用委員会は機能停止状態になった。

 収用委員会がなければ、国は事業認定に基づく土地の収用採決を受けられない。国は強制的に土地を買収する手段を失い、打つ手がないまま時間だけが経過することになる。

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2006年7月13日 (木)

異形の滑走路②

 4000㍍滑走路、2500㍍平行滑走路、3200㍍横風用滑走路―。1966年に国から新東京国際空港公団(現成田国際空港会社)に示された基本計画だ。

 空港建設の閣議決定とともに地元で空港反対同盟が結成され、激しい抵抗運動が起こる。地主の固い反対の意志や、過激派による組織的な抵抗により用地買収は遅々として進まなかった。土地収用法に基づき、国家権力が私有財産である個人の所有地を合法的に取り上げる強制収用を二回にわたり実施し、1978年5月に開港を迎える。しかし、その姿はようやく4000㍍滑走路が一本できただけ。空港の東半分は工事に着手すら出来ない「片肺空港」だった。

 成田空港は、処理能力が限界に達した羽田空港を補う日本で始めての本格的な国際空港だった。日本の高度成長を支える屋台骨として多くの関係者が開港を待ち望んでいた。本来なら、日本国中で開港を祝ってもいいものだ。しかし、78年5月20日午前10時半からターミナルで行われた開港式典は、過激派による妨害を恐れ、運輸大臣や公団関係者のみでひっそりと、隠れるように行われた。

 この空港の不幸な生い立ちを象徴するようである。

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2006年7月11日 (火)

異形の滑走路①

Img_3646_1  成田国際空港会社の黒野匡彦社長は10日、成田の2本目滑走路である暫定平行滑走路を北側に延伸し、2500㍍化する手続きを国土交通省に行った。

 暫定滑走路。またはB´(ビーダッシュ)滑走路。その名のとおり、本来計画より短い2180㍍で「暫定的に」運用している。現状のままでは、主力のジャンボ機が離発着できず、小・中型機のみの運用。しかも、中国やグアムなど近距離線にしか使えない。本来計画の2500㍍に延長し、空港能力を伸ばすことは国、空港会社の悲願だった。

 航空法に基づいた「空港施設変更許可申請」を国交省に提出することは、その悲願に向けた第一歩である。本来なら、黒野社長は満面の笑みで記者会見に臨んでもよさそうなものだが、その表情にはどこか後ろめたさが垣間見え、言葉は自嘲を帯びている。

 それもそのはず。今回の申請は、暫定滑走路の「暫定」である所以、本来計画地に広がる未買収地をひとつも解決できないまま、さらに計画と逆の北側に延伸して滑走路を「完成」させようという計画だからだ。ここで手放しで喜んでいたら厚顔無恥と笑われるだろう。

 世界で例を見ない、成田のいびつな滑走路の軌跡を数回に分けてたどろうと思う。

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